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「出来ない人」という初めての経験
社会人になって5年経ちました。
5年経った今、もう一通りのことは自分で出来て、職場でそこそこのポジションもある。
でも、私の1年目の経験はとても悲惨なものでした。
仕事が出来ないコンプレックスから抜け出した1つのきっかけについてご紹介したいと思います。
それまで順風満帆だった人生
生まれてこのかた、「全くうまくいかない」ということが何もない人生でした。
何か競争をすれば上位3位くらいまでには入り、勉強も人並みよりちょっと出来る。
音楽や絵画なども、人よりすこーしうまく出来る。そんな立場で生きてきました。
どこにいってもしっかり者。
そこそこうまくやってくれるという期待をかけられ、その通りに出来るという人でした。
何をやってもうまくいかない
就職活動も、大学の友人より少し大きい会社に内定が決まり、今までの人生通りにうまくいっていました。
でも、就職してからは今までの人生ではありえなかったような経験の連続でした。
社会人とのコミュニケーションに慣れていなかった私は、上手にメールも書けない・先輩社員と会話がうまく出来ないというつらい日々でした。
「自分はうまく出来るはず」という気持ちもあり、変な緊張で空回りしてしまっていたのです。
営業担当として配属され、社外の方にメールを書くのにも1時間かかり、先輩に怒られる。
エクセルやパワーポイントにも慣れておらず、印刷を失敗する、誤字脱字をする、宛先を間違える。
ミスのオンパレードでした。
出来ないことを隠す日々
私は新卒で入社したため、同期が10人ほど居ました。
入社して3ヶ月ほどは毎日のように終業後、同期で集まり「今日はこういう事で叱られた、こういう事を覚えた」と共有しあって支え合っていました。
みんな、ミスばかりしてて一緒だな。
でも、このフェーズを抜けたら私は頭1つ出るだろう。そんな根拠の無い自信と共に同期と接していました。
「私も全然出来ないよ」と言いつつも、同期が絡む仕事の時はあえて笑顔が多めになったり、マウンティングのような事をしていたようにも思えます。
採用してくれた人事の方にも「これからメキメキ頑張っていきます!」と明るく伝え、ポジティブな印象になるように心がけていました。
どこで評価が下がるかも分からないので…。
しかし実際は、いわゆる「仕事が出来ない人」の行動ばかりをとっていました。
ヘラヘラ笑って辛さをごまかす
当時の私は、いわゆる「パツパツな毎日」を送っていました。
なんせ、メールを書くのに猛烈に時間がかかるため、全体の仕事が遅いのです。
やっても、やっても、仕事が終わらない。
なのに、先輩たちは自分に仕事を振ってきて、帰っていく。
自分は終電も逃し、タクシーに乗るお金もなく、近くのホテルでシャワーをあび、会社に戻ってきて眠る。
月の労働時間は230時間をこえ、正直、体力的にもつらい日々でした。
「大丈夫?つらくない?手伝おうか?」
こんな優しい言葉をかけてくれた先輩も居ましたが、仕事を放棄しているように思われたくない。
出来ない人間だと思われたくない。
その一心で、「自分でやります、大丈夫です」と断っていました。
辛い顔をしていると、人に仕事を取られる、出来ない人だと思われそうだとも思い、ヘラヘラと笑うことをここで覚えました。
これも、後で思うと最悪の選択だったと思います。
誰からも嫌われたくなかった
仕事量が多いことに加え、私はかなりミスが多かったのです。
というのも、「分かったフリ」をすることがうまく、理解がしっかり出来ないまま仕事に取り掛かり、全然違うことをやってしまうという事がありました。
今思うと、ひっぱたきたい新人です。笑
ヘラヘラと笑って依頼を受け、全然違うと叱られ、落ち込み、パツり、また忙しくなっていく…。
仕事が出来ない人と思われたくないと思ってやっていた事がどんどん裏目に出ていった時期でした。
私の中では、仕事が出来ない=人に嫌われる、迷惑をかける、というイメージで(正しいかもしれませんが)、それだけはイヤだ、今までの人生通り、皆に好かれてそこそこ仕事が出来て…おいしいポジションが欲しい。そんな邪な気持ちで日々ヘラヘラと仕事をし、ミスをしていました。
でも、これも自分が悪いのではなく「疲れているから」ミスをしてしまうし、今後忙しくなくなったら・仕事が出来るようになったらミスはしなくなるんだから。これは私の実力ではない。と思っていました。
感情が無くなっていると気付かされる
そんな生活を4月の入社から約半年ちょっと続けた12月。
社内の産業医面談が設定されました。
産業医というのは、会社側で契約しているお医者さんのことで、労働時間があまりも多い社員や希望者に対して面談をしてくれ、医師的な観点でアドバイスやドクターストップをかけてくれる人です。
そこで私が言われたのは、
「あなた、今どこにも感情が見えないんだけど大丈夫?」
というものでした。
能面のような顔になっている
自分では「は?」という気持ちで受け取ったのですが、おそらく先輩達が報告してくれていたのでしょう。
具体的な仕事のエピソードや、それを聞いている私の表情から「感情が無い。笑っているつもりかもしれないけれど、目が笑っていません。能面のようです」と産業医からもらいました。
衝撃でした。
私は、仕事をはつらつと頑張っているつもりだったし、この辛い時期を乗り越えて仕事が出来るようになっていくんだ。と理解して前向きな心境でいるつもりだったのですが、周りの人から見たら全然そんな風には見えていなかったのです。
涙が溢れて、こんな泣き方をするのは幼稚園ぶりなのでは、というくらい泣きました。
わんわん声をあげて涙が止まらず、先生も何も言わずに背中をさすってくれていた事を覚えています。
何よりも自分が可哀想
涙も少し落ち着いてきて、自分のことを話すと産業医の方から「あなたは、仕事を頑張りたいと思っているんだよね?みんなに好かれたいんだよね」と理解してもらい、さらに心が軽くなって涙が溢れました。
「でも、今のあなただと、誰にも好かれない。自分で自分のことも嫌いでしょう?あなた、今本当に可哀想なのよ」と続けた先生。
自分が可哀想だなんてこれっぽっちも思ったことがなかったので、驚きました。
自分の心を殺し、ヘラヘラと笑い、ごまかして日々生きている。
今思うと、こんな人間が好かれるなんて思えないのですが当時の私はそれすらも分からない状況に居たのだと思います。
体力的にも、精神的にも疲れていました。
それも全ては、過去の自分の生き方や立場を忘れられなかったから。
周りに流されて適応していくのを待っていた結果だと思います。
乗り越えた後の人間は強い
12月に受けた産業医面談。
ちょうどその面談の後に年末年始休暇があり、仕事から離れて自分と向き合う時間が1週間ほどありました。
今聞くと、年始に私が出社するかどうか皆心配してくれていたそうです。
でも産業医面談で自分の現状に気付かされ、体力的にも回復をした私は、出社するという選択をとっていました。
それからは、何かの壁を1つ乗り越えたかのように分かりやすく仕事が楽しくなりました。
分からないことは、分からないと聞き、今の自分で精一杯のことをやる。
結果、今ではチームも任されて仕事上でのいわゆる「そこそこ良いポジション」についています。
当時があったからこそ今がある。という見方もありますが、出来れば私は自分より年次の若い子たちに同じ経験をしてほしくない。
大丈夫。ミスくらいであなたの事を嫌いになったりしないから、今の自分で精一杯、仕事をやってみてくださいと言ってあげたいです。
by cocco
記事公開日 2017/03/02
最終更新日 2017/03/02